物理学教室の歴史を彩った人々
本物理学教室の起源は1939年4月に名古屋帝國大学が我が国の9番目の帝国大学として発足した時に遡ります。 最初は1940年4月に理工学部としてスタートしましたが、1942年4月に理学部と工学部に分かれました。理学部は数学科、物理学科、化学科、生物学科の4学科からなりました。物理学科は最初3講座から始まりました。 一つの講座は、完全講座の場合、教授1、助教授1、助手2の合計4人の教員からなりましたが、本来、教授が講座の運営を取り仕切る制度です。 物理学科の講座数は1942年10月には4に、また、1943年11月には5に増えました。そして、1958年にもう一講座増やされるまでは、5講座体制が続いたわけです。最初の5講座の正教授は以下の5人でした。 宮部直巳(地学、1941年5月着任)、有山兼孝(物性物理学理論、1942年4月着任)、上田良二(物性物理学実験、1942年4月助教授として着任、1944年6月教授に昇任)、坂田昌一(素粒子理論、1942年10月着任)、関戸弥太郎(宇宙線物理学、1945年12月着任)。 よって、初期の物理学教室は5講座で約20人の教員、技術職員・事務職員なども含むと約30人の教職員の所帯でした。学部生の定員は年に20人で、大学院生は年に2~5人ぐらい在籍しました。 帝国大学の教育は3年間の学部教育と数年間の大学院教育からなりましたので、物理学教室の全学生数は約60~70人ぐらいでした。
初期はちょうど第2次世界大戦の真っ最中で、本教室とその構成員も様々な戦時中の災害を受けました。 例えば、早川吾郎助教授(光学)が1945年3月10日のアメリカ軍による東京大空襲で亡くなりました。 名古屋市も戦時災害から免れていたわけではありません。度重なる空襲で、多数の名古屋市民が死傷しましたが、物理学教室の構成員も少なからず負傷しました。そして、1945年3月25日の空襲で、とうとう一人の学生が爆弾で亡くなりました。 この悲惨な災難を目の当たりにして、物理学教室は即座に、信州などの、より安全な場所への疎開を決め、実験器具とともに、幾つかの場所に分かれて疎開しました。 具体的には、有山兼孝教授と坂田昌一教授の理論グループは長野県諏訪郡富士見村の富士見国民学校、宮部直巳教授の実験グループは愛知県西加茂郡猿投村の猿投農学校と長野県小県郡の国民学校、 上田良二教授の実験グループは長野県南佐久郡切原村の切原村図書館、宮原将平助教授の実験グループは長野県北佐久郡小諸町の平井木工所、永原茂助教授のグループは石川県金沢市の第四高等学校へと疎開しました。 大学院生は研究室に所属していましたので、グループに従いましたが、学部学生(2年生と3年生)も適当に振り分けられて一緒に疎開しました。 また、4月に入学したばかりの1年生は、5月に長野県小県郡神川村の龍洞院という曹洞宗の寺にクラスごと、まとまって疎開しましたが、他の所へ疎開している教員も時々訪れては講義をしました。 このように、物理学教室は、学校、図書館、木工所、寺などを借りて、臨時の教室、実験室、教職員室、宿舎などにしたのでした。 そして、1945年8月に敗戦になるまで、夏の学校のような体制で、正に寝食を共にして、研究・教育・学習を続けました(帰るべき名古屋市が破壊されてしまっていたので、実際には、4月から少なくともその年の10月頃までは疎開が続きました)。 疎開中は食糧事情が悪く、皆、空腹に悩まされ、また、他の物資も手に入りにくい状態でしたが、皆、研究・教育・学習に大変な意欲を持って取り組みました。 疎開を経験した、ある名誉教授(大澤文夫氏)は、木工所の暗い「教室」で、学生達とディラックの量子力学の教科書を輪読したのが忘れられない思い出だと言っていました。 また、栄養失調だったので、物理の実験をしていて手の指に小さな切り傷を受けたりすると、なかなか治らなかったそうです。
大戦後、物理学教室は疎開から名古屋市に帰ってきましたが、名古屋市の多くが破壊された状態でした。 それで、正に廃墟の中から、大学を復興させることになったのです。しかし、皆、やっと研究に集中できることを喜び、新しいスタートに精力的に挑みました。 坂田昌一教授のリーダーシップの下で、物理学教室は1946年6月13日に「名古屋帝國大学物理学教室憲章」を制定しました。 そして、教室運営は民主主義の原理に基づくことにしたのです。 それまでは講座制に基づいていたので、講座の長たる正教授が講座の研究体制を支配していましたが、これからは、共通の研究の興味を持つ人たちが研究室という組織を作り、民主主義の原理に基づいて研究を推進して行くことになったのです。 最初の研究室は以下の7つでした。D研(陰極線研究室)、E研(素粒子論研究室)、G研(地球物理学研究室)、H研(宇宙線研究室)、K研(膠質研究室)、M研(強磁性研究室)、S研(超伝導研究室)。5講座が7研究室になったわけです。 また、翌1947年には、W研(科学史・科学論研究室)が生まれました。初期の数年間は、複数の研究室に所属する教員もいました。 例えば、坂田昌一教授はE研とW研に、宮原将平助教授はM研とW研に、高林武彦助手はK研とW研に、菅原仰講師はS研とE研とW研に所属しました。
1947年6月12、13日には、教室憲章制定1周年を記念して、第一回物理学教室講演会が開かれ、その一年間に行われた研究の発表がなされました。 講演題数は34でした。以後、毎年一回(12月に)、教室講演会が開かれています。 一方、6月13日は憲章記念日として、毎年祝われています。午前中を講演と討論にあて、午後は各種スポーツなどのリクリエーション、夕方からビア・パーティーという形が定着しています。 また、講演や討論では、憲章を基軸にしながら、大学における研究・教育のあり方、運営体制などを取り上げ、教室憲章の精神の継承とその発展を期することを構成員に自覚せしめるものとなっています。
物理学教室憲章が規定しているのは、物理学の研究においては、全ての教員と大学院生が対等の立場で自由に議論するという体制です。 例えば、お互いを「さん」付けで呼び合うことが推奨されました。学生であっても教授を「先生」ではなく「さん」と呼ぶことで研究における上下関係を意識させないようにしました。現在の多くの研究室でもそうされています。 この制度は特に、若いメンバーの研究における自立性を育みました。このような学問における自由と民主主義の理想は、文部省においては全く考えられなかったことです。 憲章が当時の考え方としては、大変な革新性を持っていたのと、純粋な理想主義に基づいていたからでしょう。よって、この制度は、現在でも、物理学教室内の内部制度として運営されています。
2007年に文部科学省は、やっと、講座制の弊害を認め、教授・助教授・助手を教授・准教授・助教という名に改めて、教員の独立性を促進することにしました。 つまり、名古屋大学物理学教室は60年先を走ってきたことになります。 私達は、この学問における自由と民主主義の原理が、本物理学教室から生まれた数々の創造的な研究成果と偉大な研究者の輩出に大きく貢献したと思っています。 最も顕著な例は、坂田昌一教授の学生だった小林誠教授と益川敏英教授の2008年ノーベル物理学賞受賞でしょう。
物理学教室はその後も教員を増やし続け、現在では、約70名の専任教員(教授・准教授・講師・助教)と約10名の技術職員・事務職員が在職し、約600名の学部生と大学院生が在籍しています。 そして、研究室の数は現在約25で、宇宙・素粒子・物質・生物の4大分野全てで幅広い研究を展開しています。 素粒子物理学と物性物理学という多くの大学でも重視されている2つの基盤分野においては、本学科は全国でも有数の陣容を誇っています。 また、宇宙物理学と生物物理学の2つの分野は、他のほとんどの大学の物理学科には存在しない中、本学科の当該分野の教員数はそれぞれ我が国随一の充実ぶりであると言えるでしょう。
このような本教室の充実ぶりは、一朝一夕で達成されたものではありません。それは、多くの先人達の何十年にも及ぶ尽力の結実であると言えるでしょう。 ここでは、それら先人のうちの何人かを紹介しましょう。
- 朝倉昌
- 「朝倉・大澤理論」を創成し、現在、枯渇力と呼ばれる力の存在を明らかにした[1]。また、我が国の大学の物理学教室で初めて生体分子(ウサギの筋肉のアクチン)を用いた生物物理学研究を創始し、GアクチンとFアクチン間の相転移を研究した[2]。更に、細菌の鞭毛を試験管内で再構成し、鞭毛の形成機構を明らかにした[3]。
- J. Chem. Phys. 22, 1255 (1954).
- J. Poly. Sci. 37, 323 (1959).
- J. Mol. Biol. 10, 42 (1964).
- 今井宣久
- 添加塩のない系において円柱座標系のポアッソン・ボルツマン方程式の解析解を求め[1]、それによって、高分子電解質における対イオン凝縮を提唱した[2]。また、我が国の大学の物理学教室で初めて生体分子(ウサギの筋肉のアクチン)を用いた生物物理学研究を創始し、GアクチンとFアクチン間の相転移を研究した[3]。
- (a) 物性論研究 47, 49 (1952).
- (b) J. Chem. Phys. 30, 1115 ( 1959).
- (a) J. Phys. Soc. Jpn. 15, 896 (1960).
- (b) J. Phys. Soc. Jpn. 16, 746 (1961).
- J. Poly. Sci. 37, 323 (1959).
- 上田良二
- 世界に先駆けて真空蒸着装置を備えた反射電子回折装置を開発した。また、超微粒子の研究は我が国におけるナノサイエンス研究の基礎となった[1]。
[理 philosophia No. 6,P3]- Prog. Materials Sci. 35, 1 (1991).
- 梅沢博臣
- くりこみ可能性の判定条件を示す[1]とともに、素粒子論におけるスペクトル表示(中野・久保公式に関係)[2]および有限温度場の量子論を提唱した[3]。
- Phys. Rev. 84, 154 (1951).
- Prog. Theor. Phys. 6, 543 (1951).
- Collect. Phen. 2, 55 (1975).
- 大井龍夫
- 我が国の大学の物理学教室で初めて生体分子(ウサギの筋肉のアクチン)を用いた生物物理学研究を創始し、GアクチンとFアクチン間の相転移を研究した[1]。また、蛋白質立体構造解析のためのアミノ酸対間距離の2次元図を開発した[2]。更に、蛋白質の溶媒効果をその溶媒接触表面積を用いて表す手法を開発した[3]。
- J. Poly. Sci. 37, 323 (1959).
- J. Phys. Soc. Jpn. 32, 1331 (1972).
- Proc. Natl. Acad. Sci. USA 84, 3086 (1987).
- 大澤文夫
- 「朝倉・大澤理論」を創成し、現在、枯渇力と呼ばれる力の存在を明らかにした[1]。添加塩のない系において円柱座標系のポアッソン・ボルツマン方程式の解析解を求め[2]、それによって、高分子電解質における対イオン凝縮を提唱した[3]。また、我が国の大学の物理学教室で初めて生体分子(ウサギの筋肉のアクチン)を用いた生物物理学研究を創始し、GアクチンとFアクチン間の相転移を研究した[4]。螺旋構造と線型構造の凝集についての理論的モデルを構築し、筋肉蛋白質であるFアクチンはGアクチンが螺旋構造として凝集したものであることを示した[5]。更に、弟子達を全国の大学に送り出して生物物理学を広めるとともに、日本生物物理学会の設立に貢献した。
[理 philosophia No. 7,P14] [理 philosophia No. 20,P19] [理 philosophia No. 24,P18] [理 philosophia No. 31,P2] [名大理学同窓会報 No. 12,P6] [2009年ネイチャーメンター賞生涯功績賞受賞]- J. Chem. Phys. 22, 1255 (1954).
- (a) 物性論研究 47, 49 (1952).
- (b) J. Chem. Phys. 30, 1115 ( 1959).
- (a) J. Phys. Soc. Jpn. 15, 896 (1960).
- (b) J. Phys. Soc. Jpn. 16, 746 (1961).
- J. Poly. Sci. 37, 323 (1959).
- J. Mol. Biol. 4, 10 (1962).
- 大貫義郎
- 素粒子の複合模型である坂田模型においてU(3)対称性を発見し、その数理構造を明らかにすることによって、素粒子の分類における群論(対称性)の有用性を示した[1]。U(3)対称性を用いた素粒子の分類は、その後、Gell-Mannらのクォーク模型へとつながった。さらに、フェルミオン場の経路積分について、コヒーレント状態の手法を用いた厳密な構成方法を与えた[2]。
[理 philosophia No. 37,P2-3]
- (a) Prog. Theor. Phys. 22, 715 (1959).
- (b) Proc. Rochester Conf., pp. 843-850 (1960).
- Prog. Theor. Phys. 60, 548 (1978).
- 小川修三
- 坂田模型における対称性の役割をはじめて指摘し、大貫らとともにU(3)対称性を発見した[1]。また、丹生らが観測した宇宙線中のイベントを、それまでに発見されていない新粒子(現在のチャームクォーク)によるものであるとの理論解釈を与えた[2]。
- Prog. Theor. Phys. 22, 715 (1959).
- Prog. Theor. Phys. 47, 280 (1972).
- 葛西道生
- 螺旋構造と線型構造の凝集についての理論的モデルを構築し、筋肉蛋白質であるFアクチンはGアクチンが螺旋構造として凝集したものであることを示した[1]。
- J. Mol. Biol. 4, 10 (1962).
- 糟谷忠雄
- 金属中の異なるサイトに存在する局在スピン同士の長距離相互作用である、「Ruderman-Kittel-糟谷-芳田(RKKY)相互作用」を発見した[1]。
[名大理学同窓会報 No. 21,P5]- Prog. Theor. Phys. 16, 45 (1956).
- 加藤範夫
- X線回折トポグラフ法を開発した。また、その解析法として、球面波による動力学的回折理論を構築した。更に、国際結晶学連合会長をつとめるとともに、日本結晶成長学会の設立に貢献した[1]。
- J. Phys. Soc. Jpn. 18, 1785 (1963).
- 亀淵迪
- くりこみ可能性の判定条件を示す[1]とともに、素粒子論におけるスペクトル表示(中野・久保公式に関係)を提唱した [2]。
- Phys. Rev. 84, 154 (1951).
- Prog. Theor. Phys. 6, 543 (1951).
- 郷通子
- 蛋白質の構造単位モジュールとDNAのエクソンとの対応関係を発見した[1]。
[理 philosophia No. 1,P4-10]- Nature 291, 90 (1981).
- 小林誠
- CP非保存の要請からクォークの第3世代の存在を予測するとともに、「小林・益川行列」を提唱した[1]。
[理 philosophia No. 2,P21]
[理 philosophia No. 15,P19]
[理 philosophia No. 17,P2]
[2008年ノーベル物理学賞受賞]
- Prog. Theor. Phys. 49, 652 (1973).
- 坂田昌一
- 湯川中間子論を確立するのに決定的となった「2中間子論」の提唱[1]、くりこみ理論の先駆けとなった「C中間子論」の提唱[2]、 くりこみ可能性の判定条件[3]、更には、クォーク模型の先駆けとなった「坂田模型」[4]やニュートリノ振動を予見した「牧・中川・坂田行列」の提唱[5]など、湯川秀樹、朝永振一郎と共に三重鎮として日本の素粒子論をリードした。
[理 philosophia No. 2,P2]
[理 philosophia No. 30,P4]
[坂田記念史料室]
- Prog. Theor. Phys. 1, 143 (1946).
- (a) Prog. Theor. Phys. 2, 30 (1947).
- (b) Prog. Theor. Phys. 5, 682 (1950).
- Phys. Rev. 84, 154 (1951).
- Prog. Theor. Phys. 16, 686 (1956).
- Prog. Theor. Phys. 28, 870 (1962).
- 佐藤修二
- わが国の赤外線天文学の基礎設備、すばる望遠鏡(米国ハワイ)[1]、赤外線掃天装置IRSF(南アフリカ国サザーランド)[2]、中型装置(東アジア)を開発した。この装置[1]と中型望遠鏡「かなた」によって、時間変動に関する唯一で重要なデータを得た[3]。
- Publications of the Astronomical Society of the Pacific 117, 870 (2005).
- Proc. SPIE 4841, 459 (2003).
- Nature 463, 919 (2010).
- 三田一郎
- 破れたゲージ対称性理論におけるくりこみ可能なゲージ固定化法を提唱した。また、B中間子系でのCP対称性の破れの測定によって小林・益川模型の検証理論を展開することによって、日本の高エネルギー物理学研究所におけるBelle実験や米国スタンフォード加速器研究センターのBaBar実験の構想推進を強く動機づけると共に、両研究所の実験に必要な加速器の性質を提唱した[1]。
[理 philosophia No. 8,P4]
- Nucl. Phys. B 193, 85 (1981).
- 関戸弥太郎
- 宇宙線ミューオン望遠鏡による宇宙線源の探索と異方性の研究など、我が国の宇宙線研究の源流を成した[1]。
[理 philosophia No. 28,P2]
- Early History of Cosmic Ray Studies: Personal Reminiscences with Old Photographs (Springer, 1985).
- 高橋康
- 有限温度場の量子論を提唱した[1]。また、「Ward-Takahashiの恒等式」を発見した[2]。
- Collect. Phen. 2, 55 (1975).
- IL NUOVO CIMENTO 6, 371 (1957).
- 高林武彦
- 日本における物理学史研究のパイオニアの一人であった。また、詩人であり、批評家であった[1]。
- 「一物理学者の想い ― 学問・詩・批評 ―」(日本評論社、2000).
- 武谷三男
- 日本における科学哲学の創始者の一人である。特に、科学研究は、現象論的段階、実体論的段階、本質論的段階を経て発展するとする「三段階論」を提唱した[1]。
- (a) 科学 12, 307 (1942).
- (b) Prog. Theor. Phys. Suppl. 50, 53 (1971).
- 田中靖郎
- 多数の衛星観測により、我が国のX線天文学研究を世界の第一級に育てた[1]。
[理 philosophia No. 24,P2]- Ann. Rev. Astron. Astrophys. 34, 607 (1996).
- 冨松彰
- 一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式の厳密解の一つである「冨松・佐藤の解」を発見した[1]。
- Phys. Rev. Lett. 29, 1344 (1972).
- 長岡洋介
- 電子間斥力が強い伝導電子の模型で、たった一つの空孔が格子点を動きまわることにより全スピンが最大となる「長岡強磁性」を発見した。近藤効果の初期研究での理論を発展させた[1]。
- Phys. Rev. B 147, 392 (1966).
- 中川昌美
- ニュートリノ振動を予見した「牧・中川・坂田行列」を提唱した[1]。
[理 philosophia No. 30,P4]- Prog. Theor. Phys. 28, 870 (1962).
- 中嶋貞雄
- 超伝導の起源である電子間の引力を、フォノンにクーロン斥力を考慮し導出するなど、多体問題の理論を発展させた[1]。
[理 philosophia No. 36,P2]
- Prog. Theor. Phys. 20, 948 (1958).
- 中野藤生
- 非平衡統計力学の元祖的研究成果のひとつである、電気伝導度の「中野・久保公式」を発見した[1]。
[理 philosophia No. 19,P2]
[名大理学同窓会報 No. 21,P5]
- (a) 物性論研究 84, 25 (1955).
- (b) Prog. Theor. Phys. 15, 77 (1956).
- 丹生潔
- 原子核乾板に記録された宇宙線データ中にチャームクオークを含む新素粒子を発見した[1]。
[理 philosophia No. 34,P2]
[名大理学同窓会報 No. 18,P4]
- Prog. Theor. Phys. 46, 1644 (1971).
- 丹羽公雄
- 原子核乾板全自動飛跡読み取り装置を開発し、タウニュートリノを発見した[1]。
- Phys. Lett. B 691, 138 (2010).
- 早川幸男
- 我が国初の宇宙X線のロケット観測をはじめ、日本におけるX線、赤外線によるスペース天文学を創始した[1]。また、名古屋大学の多くのメンバーにそのリーダーシップを尊敬され、理学部から選出された最初の名古屋大学総長に就任した。
[理 philosophia No. 4,P2]
- Cosmic Ray Physics. Nuclear and Astrophysics Aspects (Wiley-Interscience, 1969).
- 福井崇時
- ディスチャージチェンバー(スパークチェンバー)を開発した[1]。
[理 philosophia No. 40,P2]- IL NUOVO CIMENTO 11, 113 (1959).
- 福井康雄
- 高感度小型電波望遠鏡を開発するとともに、一般市民の「星の会」を結成して資金を集め、電波望遠鏡「なんてん望遠鏡」およびその後継機「NANTEN2」を南米チリに設置した(海外に望遠鏡を設置するのは我が国で初めてのこと)。これらの望遠鏡を用いて福井氏は、マゼラン雲と銀河系において広範な分子雲と星形成の掃天観測を行い、星間雲同士の超音速衝突が大質量星・星団の形成機構であることを発見した[1]
["Interview" in The Star Formation News Letter No.279, 16 March 2016]
[名古屋大学星の会会誌 Les etoiles Vol. 34, p. 2]- (a) Publications of the Astronomical Society of Japan 51, 745 (1999).
- (b) Publications of the Astronomical Society of Japan 69, L5 (2017).
- 藤目智
- 生体高分子が柔らかい存在であることを、レーザー光をプローブとして使う光準弾性散乱法によって明らかにした[1]。
- (a) 生物物理 14, 9 (1974). (b)Adv. Biophys. 3, 1 (1972).
- 藤目杉江
- 単離精製した骨格筋タンパク質アクチンとミオシンを使って試験管内で筋収縮を再構成し、光学顕微鏡を用いてその反応過程を可視化した[1]。
- J. Cell Biol. 101, 2335 (1985).
- 堀田健
- 我が国の大学の物理学教室で初めて生体分子(ウサギの筋肉のアクチン)を用いた生物物理学研究を創始し、GアクチンとFアクチン間の相転移を研究した[1]。
- J. Poly. Sci. 37, 323 (1959).
- 牧二郎
- ニュートリノ振動を予見した「牧・中川・坂田行列」を提唱した[1]。また、素粒子の4元模型を提唱した[2]。
[理 philosophia No. 30,P4]
- Prog. Theor. Phys. 28, 870 (1962).
- Prog. Theor. Phys. 31, 331 (1964).
- 益川敏英
- CP非保存の要請からクォークの第3世代の存在を予測するとともに、「小林・益川行列」を提唱した[1]。
[理 philosophia No. 2,P21]
[理 philosophia No. 15,P19]
[理 philosophia No. 16,P2]
[名大理学同窓会報 No. 5,P6]
[2008年ノーベル物理学賞受賞]
- Prog. Theor. Phys. 49, 652 (1973).
- 芳田奎
- 金属中の異なるサイトに存在する局在スピン同士の長距離相互作用である、「Ruderman-Kittel-糟谷-芳田(RKKY)相互作用」を発見した[1]。また、近藤効果におけるスピンシングレット基底状態を解明した[2]。
- Phys. Rev. 106, 893 (1957).
- Prog. Theor. Phys. 36, 875 (1966).
- 吉森昭夫
- ルチル型結晶で体心正方格子点上のスピン間にはたらく反強磁性相互作用が競合する場合に、一方向に螺旋構造を示す磁気モーメントが生じることを理論的に見出し、二酸化マンガンのスピン配列を説明した[1]。
- J. Phys. Soc. Jpn. 14, 807 (1959).